2018.09.14 (Fri)
たまには読書感想文などを
なまくらにとうりゅう、別にワタクシ忘れていたわけではございませんよ。
今回は翻訳ではないのです。
いやはや、最近本を一冊読みましてね。その感想とか、書いちゃおうかなー、なんて。
作品はこちらです。
曄田 依子(ようだ よりこ)さんの「繕い屋の娘カヤ」

帯にも書いてあるように、これは児童向けの本ではあるのですが、「児童向け」というのはたぶん、子どもを不用意に傷つけないような素材が使用されている、という意味だということは強調しておきたいと思います。
アレですよ、テーブルやらなにやらの家具の角にゴムのクッションを付けておくようなものですよ。
ゴムのクッションついてても椅子は椅子、テーブルはテーブルですよね?
と、いうわけで感想!
あらすじはこちらから引用
十歳の少女・カヤは、両親が居らず「繕い屋」を生業としていました。
ある日、神社の台座から落ちた狛犬の「ミスマル」に、
神様の危機を救う旅へと誘われ、不思議な森へと分け入ることに……。
「ミスマル」と聞いて「ユリカ」を思い浮かべた方、私と同類です。脇に置いといてください、違います。
不思議な森に分け入るのですが、不思議な森は近所の森です。
不思議なものというのはたいてい近くにあるのです。ほら、部屋の勉強机の引き出しとか、部屋の畳の裏とか、疎開先のクローゼットとか引っ越し先の天井裏とか。
僕も子どものころは、路地裏に入るとそういう不思議なところに行けるんじゃないかと思ってました。
今でもその名残はあります。そういうの大好き。
読めば、五感をフル活用した描写にまるで自分がそこにいるかのような錯覚を覚えます。
一つだけ引用(フリガナは省略。やりかたわかんない)。
森へと足を踏み入れる場面。
「その鳥居を、一歩進んでくぐり抜けた瞬間です。ヒヤリと空気が変わりました。外からは真っ暗に見えた森は、幾層にも折り重なった緑色のレースの天井から、絹糸のような光が何百と差し込んでいました。その光で、地面はたくさんの翡翠を粉々に割ってバラまいたように、キラキラと輝いていました」
解説するのも野暮ですけど、皮膚感覚から、目が明るさの変化に慣れて、その視線が上から下へと降りてきます。
こういうこと、今までの人生でありませんでした?
僕はありました。
翡翠をバラまいたことはないですけど、いつか見た翡翠と、光るものをバラまいた体験(スパンコール、ちなみに)ならあるので、見たことないものでもどうにか脳内構成することができるのです。
ザッツ大人力!
ん? 児童文学だろって?
子どもは体験が少ないだろって?
体験したことがなくてわからなかった表現は、その後のいつかで体験して「あ、これだ」ってなるからいいんじゃないスか。
「恋は甘酸っぱい」なんて表現はいくつか恋をしたあとで「あ、これか」ってわかるからみんな使うのでしょうに。
ええと、話がそれました。
皮膚感覚や、視覚だけではなく、物語を読み進めると読む方も耳や舌が生き生きと働くのを感じます。
スープを三回口に含むシーンとかすごいよ。
ひとつふたつと色を塗り重ねていくように、体験が重なってくの。
ではここでCM!
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エンサァァァーーーーィイイイオ
てえっキニコぅ!
Ensaio Tecxhnico (エンサイオ・テキニコ)
お互いの身体に気をつかうべく、深夜から日中に舞台を移しての打楽器ひっぱたき大会、久しぶりの開催です。
老若男女
年齢性別
素人玄人
問いません!
老若男女と年齢性別は同じ意味だスカポン。
日時
9/29(土)
場所
ジャックカフェベースメント
神奈川県横浜市中区 海岸通1丁目1 ジャパンエキスプレスビル1階・地下1階
google map → https://goo.gl/maps/vPYFH2YpKtG2
土曜の昼からめいめいに楽しみつつズンズン。
なお、今回のテーマは「ジレトール」だそうですよ。
指揮者です、指揮者。
みんなの前の気が利くマチョマンは何を思って腕を振るのか。
乞うご期待!
CM明け5行前
4
3
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では、続きとまいりましょう。
この作品で僕が好きな場面はたくさんあるのですけれど、一つだけ挙げるならば、
石の狛犬だったミスマルが自分の肉体に言及する場面。
なんで良いのかというのはごく単純で、僕自身も「身体があるって素晴らしい」と思っているから。
身体が無いって言う状態は幽霊かなにかだから、想定するのは難しいけれど、うん、身体があるって素晴らしい。
それを代弁してもらった気がして、印象に残りました。
さてさて。CMの前に、”「児童向け」というのはたぶん、子どもを不用意に傷つけないような素材が使用されている、という意味だ”
と書きました。
しかし、児童向けのクッションに包まれていても、孤独は孤独、喪失は喪失、欠損は欠損です。
たとえば、物語が幕を開けた時にはすでに、カヤは両親不在です。
ほかにも、失ったもの、失うもの、持ちえなかったものがいくつかあります。
そして、 「完全に元通り」 にならないものもあるのです。
僕は、この点は結構大事だと思っていて、つまり、なにも壊れず、なにも失くさずに生きていくことができない以上、そこはどうにかして立ち向かうしかありませんわね。
うん、あんまり自説を延べすぎて興冷めさせてしまうのも嫌なので、そろそろおしまいにします。
喪失に立ち向かう女の子と狛犬の物語、「繕い屋の娘カヤ」
通学路途中の脇道にふと入ったことがあるすべての方に、強くお勧めいたします。
ぺこ。
2017.10.21 (Sat)
人生の25パーセント
モシダーヂ・ヴァガブンダの10周年ライブパーティ、mv10が来週に控えてまして、今日21日はそのリハだったんですよ。
その帰りの列車で、SummyとFFの音楽の話になった。
ファイナルファンタジーのBGMの話ですね。
中学のころには、FFの3から6までオリジナルサントラ持ってたし、アレンジアルバムも、曲に歌付けたアルバムも持ってたぐらいにはハマってましたよ。
手持ちのウォークマンにも何曲か入ってる。
エクスデス (FF5のラスボス) のテーマを聞けば、魔法を使うときの音を想像しちゃったりしますよね。
「うちゅうの ほうそくが みだれる!」 とかね。
そんなFFをつくったスクウェアですが、最高の作品はクロノ・トリガーと信じてやまない。
スクウェアとエニックスがまだ別々で、FFとドラクエが鎬を削ってた時代に発表されたRPG。
ドラクエの生みの親とFFの生みの親が力を合わせて作る、ドリームな作品。
エンディングを見終わった後に余韻に浸れる作品はなかなかありませんが、これはそういう名作です。
個人的にはラスボスにジルバード(タイムマシーン飛行機)を特攻させたバージョンのエンディングが好き。
スーパーファミコンのドット絵で、顔のパターンは笑う、怒る、うつむく、目をとじるの4パターンぐらいしかない。
あと、回るとか腕をあげるとか。
FF4から始まった演出をブラッシュアップさせたものですが、表現力が画期的だった。
電車での会話がきっかけでクロノ・トリガーの曲も久しぶりに聞きたくなって、アレンジ音源をyoutubeで聴いた結果、
猛烈なノスタルジーをころころと転がすハメになりました。
音源はしらべて買う。
さて。
まぁ、テレビゲームなわけですよ
僕の両親に言わせれば、というか、言われてたのは「ファミコンなんて」ってことでした。
だけど、いま感じてるノスタルジーは本物なのです。
シンプルに、昔すごくすごく好きで、時間をかけたものだから。
そう思って、ふと、父が図書館によく行くのも、同じ理由なのかなと思った。
同じ本を何度も読み返してる姿は見たことないので、たぶん、図書館という場所そのものに意味があるんじゃないかと思ってる。
たぶんね。
ええと、僕はいまでもFFとドラクエはやります。
奇しくも、今やってる新しいドラクエはクロノ・トリガーと同じく、時間をテーマにしてました。
時間。
昨年ぐらいにこの記事を読んだ時に、人は時間にも感動するんだなと思った。
引用すると
自分たちがどんな50年を歩んだかを想像すると、なんだかすごく心が揺れた感じがしたんです。
それで、モシダーヂ・ヴァガブンダを結成してから10年。
僕の人生のおよそ25パーセントです。
10年。
クロノ・トリガーと違うのは、それがすでに完結した物語であるのに対して、モシダーヂは現在進行系であるということ。
そりゃ、モシダーヂ・ヴァガブンダの過去の活動にノスタルジーを感じることはありますよ。
ただ、このノスタルジーは転がすものではなく、小脇にかかえるもんだと思ってます。
ノスタルジーの一つや二つを小脇に抱えたところで、ショカーリョ振る邪魔にはなりませんのでね。
と、いうわけで
10/28(土)
オマタセ、ベイベー、イッツショータイム!


Date: 2017. 10. 28. sat 17:00 open/start
Location: B.B. Street(横浜市中区真砂町3-33 CERTE12階 / JR関内駅北口徒歩0分)
Charge: adv. 2,000yen+order / door. 2,500yen+order
Live Act: mocidade bagabunda bateria nota 1000
Showcase: mocidade samba system
DJs: 中原 仁(J-WAVE “Saude! Saudade…”) / 高木慶太 / TANACHU(Alegre / KINGLE) / MICCYAN(FANTIC BROWN BEAT!) / MEGUMUSIX / Zaki(Love for sale!!)/ doB(mocidade vagabunda)
Facebookのイベントページはこちら。
ではでは、現在進行形でお待ちしております!
ぺこ。
2017.09.29 (Fri)
サンマカーニバル
浅草サンバが終わったころから盛り上がり始めるもう一つのカーニバルです。
あ、そうだ皆さんお久しぶりです。
お元気でしたか?
前回の更新が3/28なので、半年ぶりですわね。僕は主に引っ越しと浅草サンバと仕事してました。
引っ越しは横浜から再びの墨田区です。前にすんでたときより外国人観光客が増えてる気がする。
ところでサンマカーニバル。
"カーニバル (Carnival)" って単語の造りになんですが、
カーニバルというのは
Carne (肉) の!
肉の!
バル???
なんですよ。
肉バルなんですよ!
肉ヴァルなんですよ!
ヴァルって何ですよ、、、?
人類の夢
マンガ肉再現ツール
を手がかりに。
ラテン語の "Carne, Vale! / 肉よさらば!" から来てるのですって。
普通に手持ちの辞書にも書いてあった。
何故に「さらば」なのかはまたあとで説明するとして。
このCarne / カーニ、肉、狭義では動物の赤身肉なんですよ。
単発でカーニって言ったら、牛肉です。圧倒的牛肉です。
日本でも「肉を食べに行く」と言ったら圧倒的牛肉でしょう。
後輩に良いとこ見せようと「お前ら、今日は肉を喰わせてやる」とケンタッキーに連れて行ったらどうなるか、想像に堅くないですよね?
(マックだったらいいのか、という疑問は置く)
それなりの金銭を支払ったにも関わらず、尊敬を損なう。
我が友人に言わせれば、死んだ金の使い方です。
2万円近いテトリスのコスプレを買い、二度と使わないぐらい死んだ金の使い方です。
まぁ僕だけど。

サンマカーニバルに話を戻します。
ここで取り上げたいのはつまり、サンマは肉なのか?ということです。
「メインは肉にしますか、魚にしますか」
という台詞からもわかるとおり、世の中的には魚を肉とは別のものとして捉える風潮がございまして。
これはブラジルでも同様。
そうすると、カーニバルのカーニにサンマは含めていいのだろうかという疑問がわいてきたのであります。
アンゴラ(註)のジェズス・シウヴァさんも似たような疑問を持ったようで、こんなやりとりを見つけました。
https://ciberduvidas.iscte-iul.pt/consultorio/perguntas/carne-de-peixe/31665
Será que é correcto dizer «carne de peixe»?
(「魚の肉」っていう言い方は正しいのでしょうか?)
これに対して、マルタ女史が回答しています。
É, de facto, correto dizer-se «carne de peixe», porque o termo carne designa, também, «parte musculosa comestível do corpo de certos peixes e crustáceos»
結論から言うと、「魚の肉」という言い方は正しいです。
肉(carne)と言う単語の定義には、「食用となりうる、魚類や甲殻類の筋肉部という意味もあるからです」
回答はまだ続くのですが、とにかくサンマをカーニバルすることに問題は無いようです。
なぁんだ。
しかしマルタ女史があげた例文をみてもう少し思うところが。
例文の"carne"に「肉」って単語をあてて訳すと
«O pargo tem uma carne muito saborosa.»
"鯛の肉はおいしい"
«Gosto muito da carne branca da lagosta.»
"ロブスターの白い肉が好きだ"
・・・・あれ?
なんか変だぞ。
これは「肉」ではなく、「身」とするべきところだぞ。
鶏肉、豚肉みたいに魚肉という機会なんて、スケトウダラなどの冷凍すり身50-60%に、豚脂、調味料と香辛料を混ぜ、練り合わせたものをケーシングし、レトルト殺菌釜で高圧高温殺菌を行った棒状の食品を指すときぐらいだぞ。
あ、そうか。
陸の動物の筋繊維と海の生き物の筋繊維を区別するのは、日本語のほうだったのか。
縄文時代にはナウマン象やヘラジカの肉を食べてたというし(マンガ、人物日本の歴史的より)肉そのものはそんなに縁遠いものでもないかとおもうのだけど。
しかし勉強になるぞなまくらにとうりゅう。
と、言うわけで豆知識!
註
・アンゴラ
ポルトガル語圏の国の一つ。
ポルトガル語圏の国は
アンゴラ、ブラジル、カーボベルデ、ギネ・ビサウ、モザンビーク、ポルトガル、サントメ・プリンシペ、東ティモール。
東ティモールと僕は誕生日が同じです。
・肉よさらば
日本語で謝肉祭と訳されるカーニバル、カトリックのお祭り。
このお祭りが終わったらしばらくお肉が食べられないの。
だもんで、肉よさらば。
カーニバルを「謝肉祭」と訳したセンスには脱帽しますが、そのチョイスには「いただきます」に近い発想があったのかもしれません。
ありがとうさようなら、肉。
なんだかサンマを焼いて食いたい。
ぺこ。