2015.12.01 (Tue)
マリアってなに?人名?
人名だろって?
っき!
今回は「ブラジルの声」と呼ばれるこの方

ミルトン・ナシメント / Milton Nascimento
似てる。

そして、ミルトンほど有名ではないけど、この方。フェルナンド・ブランチ / Fernando Brant

ところでミルトン・ナシメントのナシメントは1942年10月26日だそうです。勉強になりますね。
ナシメントはNascimentoと綴りまして、「出生、出生日」と言う意味になります。勉強になりますね。
これを書くにあたって、ブラジル音楽歴17年にして初めて彼の生い立ちや、クルビ・ダ・エスキーナ(Clube da Esquina / 街角クラブ)と呼ばれる音楽一派についてを調べたんですが、面白いっす。
クルビ・ダ・エスキーナはずっとアルバムタイトルだと思っていましたが、もともとはミナス・ジェライス州の州都ベロオリゾンチに集まった若者たちが、自分たちの集まる場所のことをクルビ・ダ・エスキーナと称していたものだそうで。
ミナス・ジェライス州、通称ミナス。

ミルトンはリオ生まれ、ミナス育ち。本名をミルトン・ド・ナシメント / Milton do Nascimento.
産まれて初めて買ってもらった楽器はベースボタンが2つのアコーディオン。
父は不明。産みの母は2歳の時になくなり、祖母に引き取られてミナス州ジュイス・ヂ・フォーラへ。その後音楽教師のリラ / Lília Silva Campos の養子になって、同州トレース・ポンタスへ。
13歳でWagner Tiso / ヴァギネル・チゾと出会い、バンド「銀の月光(Luar Prata)」を結成。これがのちのち"W`s Boys"になりまして、8年後、21歳(成人!)で州都ベロオリゾンチへ上京。
Edifício Levy(レヴィ ビル)っていうアパートの一室に暮らし、そこでロー・ボルジェスやフェルナンド・ブランチ、トニーニョ・オルタに14bisのベルメーリョなど数多くの友人と出会ったそうです。
ちなみにその頃は、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルがトロピカリアをぶち上げていた真っ最中。
彼らは同じビルにすんでた訳じゃないんですが、なんだかトキワ荘物語っぽいものを感じてしまいます。
お金もそんなにないので何でもない路上でいつもたむろしていたんですが、別の友人が車で通りがかって曰く
「なんだよ、クラブいこうぜ!?」
答えて曰わく
「俺たちのクラブならここだよ、街角だ!」
で、クルビ・ダ・エスキーナ。
フェルナンドはそんなクルビ・ダ・エスキーナの創立メンバー(創立って瞬間があれば、ですが)
ミナス・ジェライス州のカウダス生まれ、州都ベロオリゾンチ育ち。
ブラジルの公立高校で5本の指に入る優秀な高校を卒業後、ライターとして働いていて、クルビ・ダ・エスキーナにはミルトンの誘いで行くようになったそうです。
父親と同様に人権についても勉強しており、本をたくさん読んで、映画を沢山みる青春時代だったそうで。
彼自ら歌った曲は見つからなかったので、曲か詞かと言われれば、詞の人だったような印象を受けます。
代表作は初めて詞を書いた、ミルトン作曲のトラヴェシア / Travessia (旅路) や、ミルトンが英語で作った"Unencountered"という曲にポルトガル語の歌詞をつけた"Canção da América"(カンサォン・ダ・アメーリカ、アメリカの歌)
そりゃ、どんな歌にも物語があるし、波の一つ一つにだって物語があって、と永山マキさんも歌っていますが、クルビ・ダ・エスキーナの歴史から垣間見える「いまはお爺さんになった若者が、出会い、歌を作り、そのうち年をとった」という物語は、ブラジル人でなくても共感するところでありますし、遠い別の国に暮らしていてなお、共感できるのはうれしいものです。
さてさて、そんな二人の作品、タイトルをマリア、マリア。
アルバム"クルビ・ダ・エスキーナ"から7年経ち、みんな30歳をすぎたころに(ミルトン36歳、フェルナンド32歳)ミルトンが声をかけた"あの頃のメンツ"と、"あの頃のメンツが広げた人の繋がり"による一枚
"Clube da Esquina 2"
に収録されています。
ミルトン・ナシメントの歌ならこちら。
エリス・ヘジーナの歌うバージョンはこちら。収録アルバムは"Saudade do Brasil / サウダージ・ド・ブラジル(恋しきブラジル)"
んじゃ、本題!
----------------------------
Maria, Maria
É um dom, uma certa magia
Uma força que nos alerta
Uma mulher que merece
Viver e amar
Como outra qualquer
Do planeta
マリア、マリア
それは才能、確かな魔法
僕らに危険を知らせる力
そのために生き
愛するに値する女性
この星の
他のどのひともそうであるように
Maria, Maria
É o som, é a cor, é o suor
É a dose mais forte e lenta
De uma gente que ri
Quando deve chorar
E não vive, apenas aguenta
マリア、マリア
音、色、汗
そして薬
泣くべき時に笑い
耐えるばかりで生きられない人に
永く効く特効薬
Mas é preciso ter força
É preciso ter raça
É preciso ter gana sempre
Quem traz no corpo a marca
Maria, Maria
Mistura a dor e a alegria
しかし力はもたなければ
血筋を知らなければ
強く望まなければ。いつだって
マリア、マリア
痛みと喜びを混ぜるひと
Mas é preciso ter manha
É preciso ter graça
É preciso ter sonho sempre
しかし賢しさはもたなければ
ユーモアをもたなければ
夢をもたなければ。いつだって
Quem traz na pele essa marca
Possui a estranha mania
De ter fé na vida
肌にその印のある者は
変わったやり方で
生きることを信仰する
Mas é preciso ter força
É preciso ter raça
É preciso ter gana sempre
でも力は必要だ
血筋を知らなければ
意志を強くもたなければ。いつだって
Quem traz no corpo a marca
Maria, Maria
Mistura a dor e a alegria
体にその印をつける者は
マリア、マリア
痛みと喜びとを混ぜるひと
-------------------------
訳注
Planeta
プラネータ。
惑星と言う意味の名詞です。
aで終わる名詞の9割が女性名詞なんですが、これは男性名詞だった。
なんでだろう?
サンバ / sambaは外来語なのでaで終わるけど男性名詞
バイクを表す "moto / モート" は "motocicleta / モトシクレータ" の省略なので、oで終わるけど女性名詞。
Planetaの場合はなぜなんだろう?
意外とポルトガル語への流入が遅かったりしたのかな?それで外来語扱いとか。
marca
マルカ。
印とか、記号とか、傷なんかの跡のこともMarcaって言います。
今回翻訳するにあたって、歌詞中の
"肌にその印のある者は
変わったやり方で
生きることを信仰する"
っていうの、何かのお注射じゃなかろうな、ってちょっと思いました。
lenta
レンタ。形容詞、女性形。男性形はlento / レント
主な意味は「遅い」なんですが、持続する、という意味もあるみたいです。
してみると、「時間がかかる」と言うのがそもそもの意味だったのかもしれませんね。
Maria
マリア。
いやまぁ、人名っすよ。
人名なんですけど。
例えばザズエイラは素直に人名として割り切って読めますが、ここでのマリアは「本当に人かなぁ?」って感じはします。ざっくり言えば思わせぶり。
1978年は末期とはいえまだ軍政下にありましたし、「何か」なんだろうなぁとは思いますが、結局何なのかはわからないんですよね。
マリアってなに?本当に人名?
どうでもいいけど僕が受精卵になったものこのころです言わなきゃいいのに!
raça
ハッサ。
サンバに親しんだ人なら、この単語を「人種」として知っている人もいるんじゃないかかと思います。
大きくは生物の「種(しゅ)」なのですが、血統、血筋も意味します。
preciso 必要
ter 持つ
raça 血統
人は誰でもそれぞれの血統を持つんですが、血統を持て、というのは、自らがどこからが来たのかを知れ、ということなんじゃないかと思います。
gana
ガーナ
Ter gana、で、強い欲求をもつ、っていう意味になります。それ以外の使い方はあまりしないみたいです。
なお、ポルトガル語でアフリカの国ガーナもこのつづりです。
Manha
マーニャ。狡さ。賢さ、賢しさ
「してやられた!」と思う時の、してやる方の能力ですね。
フェルナンドの処女作トラヴェシアを徹底的に悪く言えば、青臭く、なんとも女々しいセンチメンタリズムに満ちたているのですが、それとくらべて、この時のフェルナンドは
しかし賢しさは必要だ
と書きます。
政治そのものを皮肉るのではなく、ルールを逆手にとる知恵を以て、ユーモアを以て、夢を以て、負けてはやらんよ、という生き方を書いているように思います。
今現在の僕が、そういう年齢になっていることもあるとは思うんですが、こういうの、格好いいっす。
そして、今の今まで知らなかったのですが、フェルナンドは今年の6月12日、腎臓移植の手術後に合併症で亡くなったそうです。
http://m.zerohora.com.br/284/noticias/4780905/compositor-fernando-brant-morre-em-minas-gerais
彼の葬儀では、その友人たちがトラヴェシアの一説 "Quando você foi embora fez-se noite em meu viver" (君が行ってしまって、僕の日々には夜がきたよ)や、
アメリカの歌の一節、"Amigo é coisa pra se guardar debaixo de sete chaves, dentro do coração"(友とは、鍵を七つかけて心にしまっておくものさ)と歌ったとのこと。
14bisのベルメーリョ / Vermelhoも彼の曲を引用し、「Amigo é coisa pra guardar do lado esquerdo do peito, dentro do coração Fernando Brant, parceiro querido de tantas belas canções, partiu em sua travessia para outra vida(友は、左の胸、心の中にしまっておくものだなフェルナンド・ブランチ、たくさんの美しい歌を残し、また別の人生に旅立った大切な相棒よ)」と語り、カエターノは「Eu amava Brant nos detalhes(ブランチの一語一句が大好きだったよ)」と述べました。
そしてミルトンは新聞(Folha de Sao Paulo)のインタビューに"Vida não teria sido tão linda sem Brant (ブランチがいなければ、私の人生はこんなにも美しくはなかっただろう)"と応えたのだそうです。
カルトーラにしろ、エリス・ヘジーナにしろ、ヘナート・フッソにしろ、僕はその人がなくなってから出会うなぁ。
半年もたって、今更、ですけど、Fernando Brante, descance em paz.
黙祷
なお、途中に出てくるバンド名や曲名を不遜にもカンで日本語にしたりしています。
その辺の訳注は、おいおい。
1942
Aos dois anos de idade, Milton já martelava um piano na casa de seus avós. Logo depois ganhou uma sanfoninha de 2 baixos, que foi seu primeiro instrumento.
1942
2歳にして、祖母の家にあったピアノに親しむ。そのすぐ後に2ベース(左側のベースボタンが2つ)のアコーディオンを買ってもらう。これが産まれて初めて手に入れた楽器であった。
1944
Com a morte da mãe, Maria do Carmo, Milton vai morar com a avó biológica em Juiz de Fora. Não se adapta e passa parte do dia sentado na calçada, à espera de rever alguém da sua antiga casa.
1944
母、マリア・ド・カルモの死に伴って、祖母とジュイス・ヂ・フォーラで暮らすようになったが、馴染めず、一日中道端にすわっては知っている人に会えないかと待っていた
1945
Após se casar e mudar para Três Pontas, Lília, filha de sua madrinha e que se tornaria mãe adotiva de Milton, sente que algo não vai bem com ele.
Conversa com o marido Josino, com os pais Augusta e Edgard, e, então, o jovem casal vai a Juiz de Fora pedir à avó que o deixe morar com eles. Num trem de ferro a nova família, Milton, Lília e Josino, segue para Três Pontas.
1945
結婚後にトレス・ポンタスに引っ越してきた
リリア、後のミルトンの養母は、ミルトンの何かが上手くいっていないと感じて夫のジョジーノや両親と話し合った後、ジュイス・ヂ・フォーラへ赴いてミルトンの祖母にミルトンと暮らすのを諦めて欲しいと頼んだ。
こうして、ミルトン、リリア、ジョジーノの三人は列車に揺られてトレス・ポンタスへと向かった。
1950
Antes de completar sete anos ganha uma gaita e uma sanfona de quatro baixos. Passa horas sentado na varanda de casa, tocando os dois instrumentos ao mesmo tempo, com ajuda dos joelhos para segurar a gaita. Como a sanfona é precária, completa as notas que faltam com o som da voz.
1950
6歳のころにハーモニカと、4ベースボタンのアコーディオンを与えられた。家のベランダで座り込んで、膝にハーモニカを挟み二つの楽器を同時に鳴らして一日中過ごしていた。アコーディオンが安物だったので、足りない音階は声で補っていた。
1955
Seu primeiro violão, aos 13 anos, foi um presente endereçado à mãe que ele recebeu em casa na ausência da mesma e que, da porta, foi direto para o seu quarto. Nessa época faz amizade com Wagner Tiso e forma com ele o "Luar de Prata", seu primeiro conjunto musical.
1955
13歳にして初めてのギター。
母親の留守中、玄関に置かれていたその母からの誕生日のプレゼント。受け取るなり自分の部屋へ一直線。このころワギネル・チゾと友達になり、初めてのバンド「銀の月光」を結成。
1960
O "Luar de Prata" evolui para "Milton Nascimento e seu Conjunto", com o qual se apresenta em várias cidades da região. Com outros amigos a dupla Milton e Wagner forma o grupo "W"s Boys".
O grupo faz tanto sucesso que os dois são convidados para integrar o "Conjunto Holliday", em Belo Horizonte, com o qual grava o compacto "Barulho de Trem".
1960
「銀の月光」は「ミルトンとその仲間たち」に発展し、あちこちの街で演奏を行っていた。ミルトンとヴァギネルのコンビは他の友人たちと「ダブリューズ・ボーイズ」を結成。これがヒットし、その人気はベロオリゾンチで「コンジュント・ホリデイ」を取りまとめる中心人物として招待され、このバンドで「列車が行く」を録音し、SP盤を出した。
1963
Muda-se definitivamente para Belo Horizonte e se instala em uma pensão do Edifício Levy, onde conhece a família Borges. Além do "Holliday", integra o conjunto de bailes "Célio Balona".
1963
ベロオリゾンチに引っ越し、レヴィビルの一室に部屋を借り、そこでボルジェス兄弟と知り合った。また「コンジュント・ホリデイ」の他に、「セリオ・バローナ」と言うダンス向けバンドも率いていた。
(続く)
っき!
今回は「ブラジルの声」と呼ばれるこの方

ミルトン・ナシメント / Milton Nascimento
似てる。

そして、ミルトンほど有名ではないけど、この方。フェルナンド・ブランチ / Fernando Brant

ところでミルトン・ナシメントのナシメントは1942年10月26日だそうです。勉強になりますね。
ナシメントはNascimentoと綴りまして、「出生、出生日」と言う意味になります。勉強になりますね。
これを書くにあたって、ブラジル音楽歴17年にして初めて彼の生い立ちや、クルビ・ダ・エスキーナ(Clube da Esquina / 街角クラブ)と呼ばれる音楽一派についてを調べたんですが、面白いっす。
クルビ・ダ・エスキーナはずっとアルバムタイトルだと思っていましたが、もともとはミナス・ジェライス州の州都ベロオリゾンチに集まった若者たちが、自分たちの集まる場所のことをクルビ・ダ・エスキーナと称していたものだそうで。
ミナス・ジェライス州、通称ミナス。

ミルトンはリオ生まれ、ミナス育ち。本名をミルトン・ド・ナシメント / Milton do Nascimento.
産まれて初めて買ってもらった楽器はベースボタンが2つのアコーディオン。
父は不明。産みの母は2歳の時になくなり、祖母に引き取られてミナス州ジュイス・ヂ・フォーラへ。その後音楽教師のリラ / Lília Silva Campos の養子になって、同州トレース・ポンタスへ。
13歳でWagner Tiso / ヴァギネル・チゾと出会い、バンド「銀の月光(Luar Prata)」を結成。これがのちのち"W`s Boys"になりまして、8年後、21歳(成人!)で州都ベロオリゾンチへ上京。
Edifício Levy(レヴィ ビル)っていうアパートの一室に暮らし、そこでロー・ボルジェスやフェルナンド・ブランチ、トニーニョ・オルタに14bisのベルメーリョなど数多くの友人と出会ったそうです。
ちなみにその頃は、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルがトロピカリアをぶち上げていた真っ最中。
彼らは同じビルにすんでた訳じゃないんですが、なんだかトキワ荘物語っぽいものを感じてしまいます。
お金もそんなにないので何でもない路上でいつもたむろしていたんですが、別の友人が車で通りがかって曰く
「なんだよ、クラブいこうぜ!?」
答えて曰わく
「俺たちのクラブならここだよ、街角だ!」
で、クルビ・ダ・エスキーナ。
フェルナンドはそんなクルビ・ダ・エスキーナの創立メンバー(創立って瞬間があれば、ですが)
ミナス・ジェライス州のカウダス生まれ、州都ベロオリゾンチ育ち。
ブラジルの公立高校で5本の指に入る優秀な高校を卒業後、ライターとして働いていて、クルビ・ダ・エスキーナにはミルトンの誘いで行くようになったそうです。
父親と同様に人権についても勉強しており、本をたくさん読んで、映画を沢山みる青春時代だったそうで。
彼自ら歌った曲は見つからなかったので、曲か詞かと言われれば、詞の人だったような印象を受けます。
代表作は初めて詞を書いた、ミルトン作曲のトラヴェシア / Travessia (旅路) や、ミルトンが英語で作った"Unencountered"という曲にポルトガル語の歌詞をつけた"Canção da América"(カンサォン・ダ・アメーリカ、アメリカの歌)
そりゃ、どんな歌にも物語があるし、波の一つ一つにだって物語があって、と永山マキさんも歌っていますが、クルビ・ダ・エスキーナの歴史から垣間見える「いまはお爺さんになった若者が、出会い、歌を作り、そのうち年をとった」という物語は、ブラジル人でなくても共感するところでありますし、遠い別の国に暮らしていてなお、共感できるのはうれしいものです。
さてさて、そんな二人の作品、タイトルをマリア、マリア。
アルバム"クルビ・ダ・エスキーナ"から7年経ち、みんな30歳をすぎたころに(ミルトン36歳、フェルナンド32歳)ミルトンが声をかけた"あの頃のメンツ"と、"あの頃のメンツが広げた人の繋がり"による一枚
"Clube da Esquina 2"
に収録されています。
ミルトン・ナシメントの歌ならこちら。
エリス・ヘジーナの歌うバージョンはこちら。収録アルバムは"Saudade do Brasil / サウダージ・ド・ブラジル(恋しきブラジル)"
んじゃ、本題!
----------------------------
Maria, Maria
É um dom, uma certa magia
Uma força que nos alerta
Uma mulher que merece
Viver e amar
Como outra qualquer
Do planeta
マリア、マリア
それは才能、確かな魔法
僕らに危険を知らせる力
そのために生き
愛するに値する女性
この星の
他のどのひともそうであるように
Maria, Maria
É o som, é a cor, é o suor
É a dose mais forte e lenta
De uma gente que ri
Quando deve chorar
E não vive, apenas aguenta
マリア、マリア
音、色、汗
そして薬
泣くべき時に笑い
耐えるばかりで生きられない人に
永く効く特効薬
Mas é preciso ter força
É preciso ter raça
É preciso ter gana sempre
Quem traz no corpo a marca
Maria, Maria
Mistura a dor e a alegria
しかし力はもたなければ
血筋を知らなければ
強く望まなければ。いつだって
マリア、マリア
痛みと喜びを混ぜるひと
Mas é preciso ter manha
É preciso ter graça
É preciso ter sonho sempre
しかし賢しさはもたなければ
ユーモアをもたなければ
夢をもたなければ。いつだって
Quem traz na pele essa marca
Possui a estranha mania
De ter fé na vida
肌にその印のある者は
変わったやり方で
生きることを信仰する
Mas é preciso ter força
É preciso ter raça
É preciso ter gana sempre
でも力は必要だ
血筋を知らなければ
意志を強くもたなければ。いつだって
Quem traz no corpo a marca
Maria, Maria
Mistura a dor e a alegria
体にその印をつける者は
マリア、マリア
痛みと喜びとを混ぜるひと
-------------------------
訳注
Planeta
プラネータ。
惑星と言う意味の名詞です。
aで終わる名詞の9割が女性名詞なんですが、これは男性名詞だった。
なんでだろう?
サンバ / sambaは外来語なのでaで終わるけど男性名詞
バイクを表す "moto / モート" は "motocicleta / モトシクレータ" の省略なので、oで終わるけど女性名詞。
Planetaの場合はなぜなんだろう?
意外とポルトガル語への流入が遅かったりしたのかな?それで外来語扱いとか。
marca
マルカ。
印とか、記号とか、傷なんかの跡のこともMarcaって言います。
今回翻訳するにあたって、歌詞中の
"肌にその印のある者は
変わったやり方で
生きることを信仰する"
っていうの、何かのお注射じゃなかろうな、ってちょっと思いました。
lenta
レンタ。形容詞、女性形。男性形はlento / レント
主な意味は「遅い」なんですが、持続する、という意味もあるみたいです。
してみると、「時間がかかる」と言うのがそもそもの意味だったのかもしれませんね。
Maria
マリア。
いやまぁ、人名っすよ。
人名なんですけど。
例えばザズエイラは素直に人名として割り切って読めますが、ここでのマリアは「本当に人かなぁ?」って感じはします。ざっくり言えば思わせぶり。
1978年は末期とはいえまだ軍政下にありましたし、「何か」なんだろうなぁとは思いますが、結局何なのかはわからないんですよね。
マリアってなに?本当に人名?
どうでもいいけど僕が受精卵になったものこのころです言わなきゃいいのに!
raça
ハッサ。
サンバに親しんだ人なら、この単語を「人種」として知っている人もいるんじゃないかかと思います。
大きくは生物の「種(しゅ)」なのですが、血統、血筋も意味します。
preciso 必要
ter 持つ
raça 血統
人は誰でもそれぞれの血統を持つんですが、血統を持て、というのは、自らがどこからが来たのかを知れ、ということなんじゃないかと思います。
gana
ガーナ
Ter gana、で、強い欲求をもつ、っていう意味になります。それ以外の使い方はあまりしないみたいです。
なお、ポルトガル語でアフリカの国ガーナもこのつづりです。
Manha
マーニャ。狡さ。賢さ、賢しさ
「してやられた!」と思う時の、してやる方の能力ですね。
フェルナンドの処女作トラヴェシアを徹底的に悪く言えば、青臭く、なんとも女々しいセンチメンタリズムに満ちたているのですが、それとくらべて、この時のフェルナンドは
しかし賢しさは必要だ
と書きます。
政治そのものを皮肉るのではなく、ルールを逆手にとる知恵を以て、ユーモアを以て、夢を以て、負けてはやらんよ、という生き方を書いているように思います。
今現在の僕が、そういう年齢になっていることもあるとは思うんですが、こういうの、格好いいっす。
そして、今の今まで知らなかったのですが、フェルナンドは今年の6月12日、腎臓移植の手術後に合併症で亡くなったそうです。
http://m.zerohora.com.br/284/noticias/4780905/compositor-fernando-brant-morre-em-minas-gerais
彼の葬儀では、その友人たちがトラヴェシアの一説 "Quando você foi embora fez-se noite em meu viver" (君が行ってしまって、僕の日々には夜がきたよ)や、
アメリカの歌の一節、"Amigo é coisa pra se guardar debaixo de sete chaves, dentro do coração"(友とは、鍵を七つかけて心にしまっておくものさ)と歌ったとのこと。
14bisのベルメーリョ / Vermelhoも彼の曲を引用し、「Amigo é coisa pra guardar do lado esquerdo do peito, dentro do coração Fernando Brant, parceiro querido de tantas belas canções, partiu em sua travessia para outra vida(友は、左の胸、心の中にしまっておくものだなフェルナンド・ブランチ、たくさんの美しい歌を残し、また別の人生に旅立った大切な相棒よ)」と語り、カエターノは「Eu amava Brant nos detalhes(ブランチの一語一句が大好きだったよ)」と述べました。
そしてミルトンは新聞(Folha de Sao Paulo)のインタビューに"Vida não teria sido tão linda sem Brant (ブランチがいなければ、私の人生はこんなにも美しくはなかっただろう)"と応えたのだそうです。
カルトーラにしろ、エリス・ヘジーナにしろ、ヘナート・フッソにしろ、僕はその人がなくなってから出会うなぁ。
半年もたって、今更、ですけど、Fernando Brante, descance em paz.
黙祷
【More・・・】
ミルトンの公式ページに載っている来歴を、ちまちまと訳してのっけていきます。なお、途中に出てくるバンド名や曲名を不遜にもカンで日本語にしたりしています。
その辺の訳注は、おいおい。
1942
Aos dois anos de idade, Milton já martelava um piano na casa de seus avós. Logo depois ganhou uma sanfoninha de 2 baixos, que foi seu primeiro instrumento.
1942
2歳にして、祖母の家にあったピアノに親しむ。そのすぐ後に2ベース(左側のベースボタンが2つ)のアコーディオンを買ってもらう。これが産まれて初めて手に入れた楽器であった。
1944
Com a morte da mãe, Maria do Carmo, Milton vai morar com a avó biológica em Juiz de Fora. Não se adapta e passa parte do dia sentado na calçada, à espera de rever alguém da sua antiga casa.
1944
母、マリア・ド・カルモの死に伴って、祖母とジュイス・ヂ・フォーラで暮らすようになったが、馴染めず、一日中道端にすわっては知っている人に会えないかと待っていた
1945
Após se casar e mudar para Três Pontas, Lília, filha de sua madrinha e que se tornaria mãe adotiva de Milton, sente que algo não vai bem com ele.
Conversa com o marido Josino, com os pais Augusta e Edgard, e, então, o jovem casal vai a Juiz de Fora pedir à avó que o deixe morar com eles. Num trem de ferro a nova família, Milton, Lília e Josino, segue para Três Pontas.
1945
結婚後にトレス・ポンタスに引っ越してきた
リリア、後のミルトンの養母は、ミルトンの何かが上手くいっていないと感じて夫のジョジーノや両親と話し合った後、ジュイス・ヂ・フォーラへ赴いてミルトンの祖母にミルトンと暮らすのを諦めて欲しいと頼んだ。
こうして、ミルトン、リリア、ジョジーノの三人は列車に揺られてトレス・ポンタスへと向かった。
1950
Antes de completar sete anos ganha uma gaita e uma sanfona de quatro baixos. Passa horas sentado na varanda de casa, tocando os dois instrumentos ao mesmo tempo, com ajuda dos joelhos para segurar a gaita. Como a sanfona é precária, completa as notas que faltam com o som da voz.
1950
6歳のころにハーモニカと、4ベースボタンのアコーディオンを与えられた。家のベランダで座り込んで、膝にハーモニカを挟み二つの楽器を同時に鳴らして一日中過ごしていた。アコーディオンが安物だったので、足りない音階は声で補っていた。
1955
Seu primeiro violão, aos 13 anos, foi um presente endereçado à mãe que ele recebeu em casa na ausência da mesma e que, da porta, foi direto para o seu quarto. Nessa época faz amizade com Wagner Tiso e forma com ele o "Luar de Prata", seu primeiro conjunto musical.
1955
13歳にして初めてのギター。
母親の留守中、玄関に置かれていたその母からの誕生日のプレゼント。受け取るなり自分の部屋へ一直線。このころワギネル・チゾと友達になり、初めてのバンド「銀の月光」を結成。
1960
O "Luar de Prata" evolui para "Milton Nascimento e seu Conjunto", com o qual se apresenta em várias cidades da região. Com outros amigos a dupla Milton e Wagner forma o grupo "W"s Boys".
O grupo faz tanto sucesso que os dois são convidados para integrar o "Conjunto Holliday", em Belo Horizonte, com o qual grava o compacto "Barulho de Trem".
1960
「銀の月光」は「ミルトンとその仲間たち」に発展し、あちこちの街で演奏を行っていた。ミルトンとヴァギネルのコンビは他の友人たちと「ダブリューズ・ボーイズ」を結成。これがヒットし、その人気はベロオリゾンチで「コンジュント・ホリデイ」を取りまとめる中心人物として招待され、このバンドで「列車が行く」を録音し、SP盤を出した。
1963
Muda-se definitivamente para Belo Horizonte e se instala em uma pensão do Edifício Levy, onde conhece a família Borges. Além do "Holliday", integra o conjunto de bailes "Célio Balona".
1963
ベロオリゾンチに引っ越し、レヴィビルの一室に部屋を借り、そこでボルジェス兄弟と知り合った。また「コンジュント・ホリデイ」の他に、「セリオ・バローナ」と言うダンス向けバンドも率いていた。
(続く)
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